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  五條楽園って其の弐

168: 名前:T2投稿日:2002/08/10(土) 02:56
どんさん
五番町も、ひと頃は七條新地に次ぐ規模の遊廓を形成していました。
明治末期に街が大きく東西2つに分けられ、東を芸妓部、西を娼妓部として営業していましたが、
上七軒がすぐ近くにあったことや、もともと娼妓中心の街だったということもあり、昭和の初めには
あっさりと「娼妓の街」に戻ってしまった、という経緯があります。大正10年の記録では、業者数
137、芸妓105名、娼妓547名が在籍していました。一時期「北新地」「西陣新地」などの呼称も
使われましたが結局定着せず、昭和33年の売春防止法施行によりその歴史に終止符を打つこととなります。

しんさん
昭和33年4月の売春防止法施行直前、七條新地には179の茶屋と693名の娼妓がおりましたが、
3月31日をもって五條楽園の前身である七條新地は全業者が廃業、灯りは一時完全に消されて
しまいました。この日を境に、実に全国で39000軒の風俗店と12万人の遊女が路頭に迷うことと
なり、日本における公娼制度は、ここで法的に終止符が打たれたわけです。一応。

一部の業者はカフェやバーなどへの転業を図った、とされていますが、「京の花街」によれば、
翌昭和34年にこの街は「五條楽園」と名を改め、再スタートを切ったとされています。
お茶屋75軒、置屋14軒、芸妓数は70余名。また旅館組合が結成されており、こちらが20軒。
単純計算しても100軒以上のお茶屋が淘汰されており、70名の芸妓が全員娼妓からの転身組だった
と仮定しても、実に10分の1の人数に減った訳です。

新法の存在の手前、五條楽園は形式的には「芸妓一本の街として再生」したことになりますので、
当然芸妓さんも「芸」ができなければお話にならないわけです。そのためにクラブ組織が結成され、
その拠点を「置屋」とし、「置屋とお茶屋」のシステムが構築されているのです。もともと少数ながら
芸妓の存在した街ですから、このような生き残りの方策を考えたのもある意味自然な成り行きと言えるの
ですが、五條楽園が「芸の道」を志したのは必ずしも売春防止法だけがきっかけではありませんでした。
「亡くなった京の廓」によると、同法の施行から溯ること12年前の昭和22年1月、全娼妓を会員と
する「七條新地巽会(たつみかい)」という組織が結成され、会員相互の自治・親睦・教養の涵養を目的と
して運営されていました。「都の華」という機関誌も月刊で発行され、和歌などが発表されたりしています。
さらに、旧スレにも証言がありましたように、三味線の発表会なども催されたりしていたことなどを
鑑みれば、五條楽園が単にカムフラージュのためだけに、芸妓さんに芸の道を学ばせている、とはちょっと
言い難いところがあります。

お茶屋の座敷で、出逢ったばかりの男女が行きずりの愛に身を委ねる・・・・
「自由恋愛」という苦しいエクスキューズのもとに、五條楽園は発足時から実質的にはいまなお「娼妓の
街」として生き続けている、という見方もできるでしょう。そうだとしたって、ニッポン広しといえども
娼妓さんに逢える街はここにしかない訳ですし、そこまでの経緯を知れば知るほど、私個人はなおのこと
彼女たちを「芸妓さん」と呼びつづけたいし、折角だからその芸も拝見したい。そう考えております (^-^)


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